2008年12月19日

渡良瀬の上流にて

「お茶どうぞ。今日は寒いでしょ」
 黒保根歴史民俗資料館の第1展示室を出た私に、予期せぬもてなしが待っていた。茶を出してくれたのは館員の女性で、いかにも田舎のおばちゃんという雰囲気だった。
 私が来ていたのは群馬県の桐生市(旧黒保根村)。わたらせ渓谷鐡道の水沼という駅で途中下車していた。ここで降りた目的は、駅に併設されている温泉に入るためだったが、次の列車まで1時間40分ほどあったので、駅の周辺案内にあった歴史民俗資料館に足を運んだのだ。DSCN0390.JPG
「温泉はもう入ってきた?」
「いやまだです。帰りに入ろうかと」
「あそこはあったまっていいよー」
 そんな感じで世間話が始まる。駅の温泉は今月の28日までとのこと。経営が苦しいという話は聞いていたが、それほどだったとは。残念ではあるが、今来ておいて良かった。
「トミヒロが絶対いいよ、このあたりだったら」
 話の中で私の今後の行程について聞かれ、未定だと答えると、こう強く勧められた。トミヒロとは、わたらせ渓谷鐡道の沿線にある富弘美術館のことだ。それはすぐにわかったが、この美術館について詳しくは調べていなかった(駅から遠いため)ので、少し戸惑った。
 茶を2杯飲んだところで世間話は終わり、第2展示室へ。第1展示室同様、特筆すべき点はない。地域にこういう資料館があること、地元の小中学生が地域の歴史を学べることに意義があるのだと思う。
 駅に戻って温泉に入る。設備は比較的新しくて先客も多く、とても深刻な経営状態とは思えない。休日だし、年内限りという話を聞きつけて来た人もいるだろうが。それはさておき、風呂のほうはなかなか良い湯で、露天風呂もあり、満足できるものであった。

「美術館、行きますか?」
 バスの運転手さんにこう聞かれたのは、神戸駅前でのことだ。ちなみにこの駅は「こうべ」ではなく「ごうど」と読む。先程の会話で出てきた富弘美術館の最寄駅だ。
 私が乗っていた列車はここで10分ほど停車するとのことで、私は荷物を持って駅を出た。富弘美術館に行くかは決めかねており、とりあえず美術館行きのバスの時刻を調べる。行きだけでなく、帰りも私にとって都合の良い時刻だった。これは行けということだろう。
 バスは大自然の中を進んでいく。乗客は私1人。途中でも誰も乗らず、信号などの障壁もほとんどなく、あっという間に富弘美術館に到着。湖のほとりにあり、晴れてきたこともあって、景色が非常に良い。対岸に見える山は、いくらか雪をかぶっている。DSCN0409.JPG
 500円払って美術館に入る。展示のほとんどが星野富弘氏の絵と詩だ。絵心がないので絵についてはよくわからぬが、詩は心を動かされるものが少なくなかった。
 凝った造りの館内を、ゆっくりと一回り。なんでもない日常から生み出される作品の数々に、いかに自分の心が荒んでいるか、思い知らされた。生活をいっぺんに変えることは無理でも、もう少し豊かな生活ができないものかな。まあ、そう思っただけでも1つの収穫であろう。
 あれこれと哲学的なことを考えながら美術館を出る。ここに来たのは大正解だった。黒保根歴史民俗資料館のおばちゃんに感謝しないと。

「こんにちは」
「あ、こんにちは」
「撮影ですか?」
 神戸駅の近くで写真を撮っていた私に、初老の女性が話しかけてきた。富弘美術館からバスで戻ってきた後、30分ほど時間が余ったので、私は駅周辺をぶらぶらと歩いていた。用事もないのに見ず知らずの人に声をかけられるのは、田舎ならではのことだ。DSCN0423.JPG
「寒いですねぇ」
 日本人が好む極めてオーソドックスな話題、天気の話がしばらく続く。前夜はかなり冷え込んだそうで、山の頂上付近の雪も、前日にはなかったとのこと。こんな話をしていたら、自分が東京から遠くに来ていることを実感する。なにしろ、日常生活では山の姿を見ることすらないのだ。
 しばらく話をした後、初老の女性は階段を降りて駅へ。列車が出るまでまだ20分ほどあるので、私はもうしばらく近辺をぶらついて何枚か写真を撮り、そして駅に戻った。

 東京での単身生活というのは、人と人との繋がりを実感する機会に乏しい。上司や同僚、取引先などは利害関係が介在する人間関係なので、無償の善意を感じることはあまりないのだ。たとえば、会社にお歳暮が届いても、「そういうしきたりだから」と思ってしまったら、心からの感謝の気持ちは持ち得ない。
 そんな生活にどっぷりと浸かっていた私が、2ヶ月ぶりに大都会を離れ、人の心の温かさに触れた。赤の他人なのに、何の得にもならないのに、私に話しかけてくれる人がいる。私をもてなしてくれる人もいる。それがとても新鮮で、ありがたいことのように感じられた。
 残念ながら、東京での生活ではこんな体験はできない。しかし、無償の善意を自分に向けてくれる人がいることは、忘れてはならないことだと思う。損得ばかりで生きていくのは、実につまらない人生だろう。
 月に1度くらいは、田舎に行こう。この日のようにうまくはいかないにしても、地元の人の心に触れることはできる。朝5時半に始まった長い1日を終えて、私はそう思った。
posted by せた at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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